* * * * ――その日の夕方、終業時間。「「お疲れさまでしたぁ!」」「お疲れっした! お先に失礼しまっす!」 朝九時から夕方四時までの勤務を終えて、私と由佳ちゃん、今西クンの三人は清塚店長と遅番の人達に挨拶して退勤した。 タイムカードを押してからロッカールームでエプロンを外し、お店の通用口から出る。 夕方にもなると少し冷(ひ)えるので、私も由佳ちゃんも白い七分袖(そで)ブラウスの上からパーカーを羽織(はお)っている。「んじゃ、オレこっちなんで! お疲れっした!」 今西クンは帰る方角が違うので、今日も由佳ちゃんとお喋(しゃべ)りしながら帰ろう。――そう思っていたけれど。「ゴメン、奈美ちゃん! ここでちょっと待ってて!」 何か買うものがあったらしい彼女は、私を待たせて店内へと引き返した。 待つこと数分後――。「お待たせ~、奈美ちゃん☆ ジャ~ン♪」 お店から出てきた由佳ちゃんは、文庫本が入るサイズのビニール袋から買ったばかりの本を取り出して私に見せてくれた。「あっ、それ……私の最新作? わざわざそれ買いに行ってくれてたの?」 彼女が買っていたのは、今日発売された私の最新刊。実は彼女はデビュー当時からの私の小説の大ファンで、新刊が出るたびにこうして欠(か)かさず買ってくれているのだそう。「これ、ウチの店にあったラスト一冊だよ」「えっ、ウソ!? そんなに売れてたんだ」 私にはちょっと信じられなかった。私の書いた本が、(他の書店さんではどうか知らないけれど)ウチの書店で発売初日に完売するなんて……!「そうなんだよ。あたしも今日は買えないんじゃないかと思ったくらいだもん」「由佳ちゃん……、ありがと!」 私は感激のあまり、道端(みちばた)で彼女に抱きついた。彼女の方も困るどころか、「ちょっと厚(あつ)かましいんだけど」と私に頼(たの)みごと。「ナミ先生、ここにサインお願いします!」 本の見開き部分を開き、バッグから自前の(!)サインペンを出して私に差し出した。「用意よすぎ! ――いいよ。ファンサービスも作家の仕事だしね」 サインペンなんていつも持ち歩いてるの、と苦笑いしながらも、私は由佳ちゃんから本とペンを受け取ってスラスラとサインする。「はい、できた! 大事にしてね」「わーい、ありがと! これ、一生の宝物にするよ
「――それにしても、今日は忙しかったね」「うん……。土日に忙しいのはいつものことだけど、今日発売の新刊多かったからね」 由佳ちゃんもそうだけど、新刊は発売日に買いたいというのが人間の心理らしい。「予約の確認でパニクった時、店長にヘルプに来てほしかったけど。店長も大変そうだったし。だから、由佳ちゃんが助けてくれてよかった」「いいのいいの。友達だもん、当たり前でしょ?」 彼女は私が高校を卒業(で)てからできた、一番親(した)しい友達だ。バイトを始めたのは彼女の方が少し先だったのに、全然先輩ヅラしないで対等に接してくれている。「っていうかさあ、店長はヒマな時でもほとんど奈美ちゃんのヘルプに入ってくんないじゃん?」 由佳ちゃんが清塚店長に対する毒舌(どくぜつ)を吐(は)き始めた。「あー……、うん。確かに……」 悲しいかな、反論したくてもできない。 由佳ちゃんの言う通り、店長は私がパソコン操(そう)作(さ)で困っている時、ほとんど助けてくれない。今日みたいに忙しくて手が離せない時には「仕方ない」って諦めることもできるけど。明らかに手が空(す)いている時にもそうだと「なんで?」と思ってしまう。……けど。「あれってわざとシカトしてんじゃないの? だとしたらパワハラだよね」「由佳ちゃんがそんなに怒んなくても……。店長にだって、きっと何か考えがあるんだと思うよ」 私はさりげなく、清塚店長のフォローをした。 別に店長の肩を持つつもりはないけれど、原口さんのパターンもあるから一概(いちがい)に「店長はパワハラ上司だ」と言い切れないのだ。「そうかなあ? でも、あんまりヒドいようならあたしが抗議してあげるから!」 由佳ちゃんは鼻息も荒(あら)く宣言してくれたけれど。「由佳ちゃん、気持ちは嬉しいけどホントにいいから。店長とか他の人の手を借りなくても困らないように、私も努力してるの」「えっ、そうなの?」「うん。編集者の原口さんに言われたんだ。『いつか必ず努力は実を結ぶんだ』って」 そう電話で言われた時の、彼の温かいけど真剣な声を思い出して、私が一人赤面していると……。「ああ。〝原口さん〟って確か、奈美ちゃんの好きな人だっけ?」 私が彼に恋心を抱いていることは、もう由佳ちゃんにも打ち明けてあった。彼女はその時にも、自分のことみたいに一緒にはしゃいでくれ
「いいじゃん、奈美ちゃん! 恋は人を成長させてくれるんだよ? そんなに恥ずかしがることないって!」「そう……かな?」 ……恋愛小説家が本業の私が、こんなことでどうするの! というか、本職(プロ)の私よりも由佳ちゃんの言っていることの方が文学的だ。私も見習わなきゃな。……じゃなくて!「そうだよ! あたし、全力でナミちゃんの恋応援してるから! その人とうまくいくといいね」「うん、ありがと。私頑張る!」 由佳ちゃんと話しながら帰っていると、その日の疲れとかイヤなこととかを忘れられるから不思議だ。そして元気になれるし、勇気をもらえる。やっぱり友達っていいな。 ――交差点で、私は由佳ちゃんと別れた。「次に一緒のシフトになるの、明後日(あさって)だね。んじゃまた! お疲れ!」「うん、またね。お疲れさま!」 由佳ちゃんと別れてから、私はマンション近くのコンビニに寄った。 私は料理が好きで、普段はちゃんと自炊(じすい)するのだけれど。今日はもうクタクタで何か作る元気もないので、晩ゴハンのおかずになりそうな冷凍食品を何種類か買って帰ることにしたのだ。幸(さいわ)い、ゴハンだけは朝炊(た)いてきてあるし。 買い物を終え、コンビニの袋を提(さ)げてマンションに帰ったのは夕方五時少し前。「――はあー、疲れた……」 ウチのマンションにはエレベーターもないので、どれだけ疲れていても二階までは階段を上がっていかなければならない。二階に住む私でこれなのだから、三階以上の住人はもっと大変だと思う。 こうしてヨロヨロと階段を上がって二階に辿(たど)り着いた私を、部屋の玄関前で待っている男性が一人――。 ……原口さん?「――あっ、先生。どうもお疲れさまです」 それは私が行ったのとは違うコンビニの袋を提げた、紛(まご)うことなき原口さんだった。彼は私に気づくと、ペコリと頭を下げた。「どうも……」 私も会釈(えしゃく)を返す。「バイトの帰りですよね?」「ああ、はい。途中で買い物してきましたけど。――あの、今日はどうしたんですか? 仕事……じゃないですよね?」 彼の服装が、ジャケットを着込んだ〝お仕事スタイル〟なのが私は気になった。 編集者という職業柄(がら)、土日関係ナシなのは分かっているけれど。少なくとも私との仕事ではないはず。私の次回作が出るのはもう少し
「まあ、仕事といえば仕事なんですけど。別の先生に用があって……、でもちょっと困ったことになってるんで、先生と酒でも飲みながら相談に乗って頂こうかと思いまして」 原口さんは肩をすくめながらそう言って、提げている重そうな袋を私に見せた。 中に入っているのは五〇〇ミリリットル入りの缶チューハイが五、六本。あとはさきイカやチーズたらなどのおつまみだ。「先生って酒豪なんでしょう?」「はい。っていうか、原口さんも飲むんですね。知らなかった……」 少し前に琴音先生から聞くまで、彼の私生活なんてほとんど知らなかったから。そもそも彼とお酒を飲んだことだって一度もなかったし――。 そういえば、琴音先生はどうしてあんなに原口さんのことをよく知ってるんだろう? ――そう思った時、私の中でまた小さな疑念(ぎねん)が燻(くすぶ)り始めた。 二年前に琴音先生と別れた元カレって、もしかして……?「――巻田先生、どうかしました? なんか浮かない表情(かお)してますけど」 原口さんに呼びかけられて、私はハッと我に返った。どうやら一人で考え込んでいて、彼に心配をかけてしまったらしい。「あっ、いえ。何でもないです。ゴメンなさい。――えっと、原口さんてお酒飲むんでしたっけ?」 もしかしたらさっき、彼は答えてくれていたかもしれないけれど。「いえ、あんまり強くはないんですけどね。今日は飲まなきゃやってられないんで」「はあ」 ヤケ酒を呷(あお)りたくなるほどのことがあったのだろうか? だとしたら、担当してもらっている作家としては(もちろん個人的にはそれだけじゃないのだけれど)放っておけるはずがない。「分かりました。今日は二人でとことん飲みましょう! どうぞ、上がって下さい」 私は鍵(かぎ)を開け、彼を招き入れるとリビングに通した。「じゃあ私、ちょっと着替えてきますから。ソファーに座って待っててもらえますか?」 バッグをソファーの隅っこに下ろし、コンビニの袋をダイニングテーブルの上に置いてから、私は原口さんに言った。「はい」 原口さんは素直に頷き、いつもの定位置に腰を下ろした。 私は例の寝室(兼仕事部屋)に入るとドアを閉めて、窮屈(きゅうくつ)な仕事着からゆったりした普段着に着替えてからリビングに戻る。 原口さんは仕事で来たわけではないからなのか、いつもよりリラックスし
「――さてと、そろそろ飲み始めます?」 時刻はそろそろ五時半。お腹(なか)も空いてきたし、飲み始めるにもいい頃(ころ)合(あい)だと思う。「そうですね。つまみはこんなものしか買ってないですけど……」 袋の中身をローテーブルの上に並べながら原口さんが頷いた。これだけのおつまみじゃ、お腹はいっぱいになりそうにないな……。あ、そうだ!「私も晩ゴハンのおかずにしようと思って、冷凍のギョーザとか唐揚げとか買ってきてあるんです。それも温(あった)めておつまみにしませんか?」「それ、いいですね! ありがとうございます!」 ――数分後。私がレンジで温めてきたギョーザやシューマイ・唐揚げなどのお皿もローテーブルの上に並び、二人だけのささやかな宅(たく)飲み会が始まった。 お酒は各々(おのおの)グラスに注(つ)ぎ、皿の上のおつまみ(おかず系)を箸(はし)でつっつき合う。 自他共に認める(?)酒豪だけあって、私はどれだけ飲んでも全く顔に出ない。でも、原口さんは相当弱いらしくて、ちょっと飲んだだけですぐに顔が赤くなった。 これだけ下戸(ゲコ)な彼が「飲まなきゃやってられない」なんて……。一体何があったんだろう? 私は原口さんが本格的に酔(よ)っ払ってしまう前に、思いきって彼に訊ねてみた。「原口さん、ヤケ酒飲むほど困ってることって、一体何があったんですか?」「実は……、蒲生(がもう)大介(だいすけ)先生のことなんですけど」 アルコールが少し入って緊張の糸が緩(ゆる)んだせいか、彼はためらいながらも話し始めた。「蒲生先生って……、〈ガーネット〉のレーベルの中で一番のベテラン作家の!?」 そこにとんでもないビッグネームが飛び出し、私はビックリして飲んでいたチューハイでむせそうになった。 蒲生先生はもう五十代半(なか)ば。作家としてのキャリアは三十年以上になるらしい。 彼は私の憧れであり、目標とする作家でもある。母が大ファンだったのをキッカケにして私もハマり、作家を志(こころざ)すことにしたのだ。「そうです。今日、彼の脱稿日だったんで、原稿を受け取りに伺ったんですけど。『書けなかった』って言われたんです。『一枚も書けなかった』って」「ええっ!?」「まあ、事情があって書けなかったというなら、僕も理解できなくはないんですけど」「違った……んですか?」 私の問
「それは……、原口さん個人で解決できないなら、島倉(しまくら)編集長に間に入って話をつけてもらうべきなんじゃないですか? 後任者も見つけてもらわなきゃいけないし」 島倉編集長は五十代前半のバリバリのやり手編集者で、蒲生先生がまだ売れていない頃には彼自身が担当についていたこともあったそう。 一度は組んでいたこともある彼の説得になら、蒲生先生も耳を傾(かたむ)けてくれると思う。「そうですよね……。先生はガッカリなさったんじゃないですか? ずっと憧れだった蒲生先生がそんな人だったって知って」「私のことはいいんです。それより、この問題を解決する方が先決でしょ? ――よし! 私から編集長に連絡してみますね」 私はバッグからスマホを取り出し,電話帳で島倉さんの連絡先を検索した。何かあった時のためにと登録してあったのだ。「――あった! コレだ。発信しますね」「あっ、待って下さい!」 電話をかけようとした私を、原口さんが制止した。「えっ?」「あの……、先生に相談しておいて何なんですけど。やっぱり、先生が首突(つ)っこまれるのは筋(すじ)が違うと思うんで……」「……ああ、そうですよね。なんか出すぎたマネしてゴメンなさい」 原口さんのいっていることはもっともだ。私はスマホを引っ込めた。私としたことが。好きな人の力になりたいと思うあまり、つい余計なマネをしてしまった……。「そのお気持ちだけで、僕は十分嬉しかったです。僕のことを心配して下さってのことですよね? ありがとうございます」「ええ、まあ……」 原口さん、買いかぶりすぎ。――まあ、半分は当たっているけど、もう半分は自己満足でしかないのに。 私は照れ隠(かく)しで、またお酒のグラスに口をつけた。酔っていることを口実(こうじつ)にしたいのに、〝ザル〟だから酔わない自分が恨(うら)めしい。「――それにしても、先生ってホントにアルコールに強いですよね。僕、羨ましいです」 私よりだいぶ赤い顔で(私の顔が赤いのは酔っているからでは断じてない)、原口さんが少々呂律(ろれつ)が怪しい調子で言った。「羨ましい? ――ああ、琴音先生も同じこと言ってましたけど。お酒が強い女性って、男性的には色気がないだけなんじゃ?」「そんなことないですよ。僕個人としては、ですけどね。むしろ、酔ってやたら絡(から)んでくる女性の方
――今日一緒に飲んでみて分かったけど、原口さんは酔うとやたら饒舌(じょうぜつ)になるみたい。普段は口数の少ない人なのに。「……ねえ原口さん。あなたって完全に酔い潰(つぶ)れちゃうとどうなるんですか?」「う~んと……。僕は全く覚えてないんですけど、どうも〝素(す)〟が出ちゃうらしいです」「〝素〟……って」 一体どんな状態? って訊いてみたいけれど、本人が覚えていないんじゃ訊いても仕方ないか……。まあ、だいぶ酔いが回ってきているみたいだし、この後イヤでも分かるだろうけれど。「――そういや、先生の元カレさんはどうだったんですか? 先生の酒豪っぷり見て引いてました?」「え……」 どうして今更(いまさら)、潤(アイツ)のことなんか訊くんだろう? 私にとってはもうキレイさっぱり過去のことなのに。 でもきっと、彼は酔いが醒(さ)めたら訊いたことさえ忘れるんだろう。――そう思うから、私は答えてあげることにした。「アイツは引いてなかったかなあ。あなたと一緒で下戸だったから、『お前の方が男らしいよな』って笑ってましたね」 潤も基本的にはいいヤツだった。私もアイツのことが好きだったから付き合っていられたのに……。「井上さんとは僕も面識ありますけど。あの頃は先生といい感じに見えたのに、どうして別れちゃったんですか?」 私は答えに詰(つ)まる。――どう答えたらいいんだろう? というか、いつかは誰かに訊(き)かれるだろうと思っていたけれど。まさか、自分が想いを寄せている相手ご本人から(酔った勢いとはいえ)正面切って訊(たず)ねられるとは思ってもみなかった。「えーっと……、簡単に言えば〝すれ違い〟……になるのかなあ」 ひとまずそう答えてから、私と潤が別れることになるまでの経緯(いきさつ)を整理していった。「潤とは大学に入ったばかりの頃、アイツの方から告(コク)られて付き合い始めたんです。私も次第(しだい)にアイツのこと好きになっていって、二人はけっこういい関係を続けていってたと思います。――私の小説家デビューが決まるまでは」「……というと?」 原口さんが首を傾げる。 私とアイツが別れた原因は、彼には理解できないだろう、実に下らないことだった。
「私は彼のこと好きだったし、夢も叶(かな)ったばっかりだったから、どっちも大事にしたかったんです。でも、彼は違ってました。『作家の仕事かオレか、どっちか選べ』って」「そんな……! 井上さんも知ってたはずじゃないですか。先生が本気で作家を目指してたこと」 原口さんも私の話を聞いて憤慨(ふんがい)している。「それって、『作家を続けるなら自分と別れろ』、『自分と付き合い続けたいなら作家を辞(や)めろ』ってことでしょう!? 勝手すぎるでしょう、そんなの!」 どうして原口さんがこんなに怒っているのかは分からないけれど、当時の私は怒(いか)りとは別の感情を抱いた。「原口さん、あなたがそんなに興奮(こうふん)しなくても。――でもね、私は怒りを通り越してなんか悲しくなっちゃって。散々(さんざん)泣いた後、『なんでこんな勝手なヤツに縋(すが)りつかなきゃいけないの?』って思ったら、自然とどっちを選ぶか決まりました」「……で、別れたと。でも、それでよかったと思いますよ。そんな自己中(ジコチュー)なオトコ、さっさと切り捨てて正解ですわ、ホンマに!」 相当酔いが回ってきたらしい彼は、やたら熱弁し始めた。……けど、あれ? イントネーションがおかしい。というか関西弁?「……ときに原口さん。出身はどこでしたっけ?」「僕は兵庫(ひょうご)の出身ですよ。っていっても、神戸(こうべ)みたいな都会じゃなくて。有名な漫画家の先生の記念館くらいしか名物がないところですけどね」「へえ……」「大学入学と同時に上京して来たんで、もう十年になりますかね」 ――それからは、彼の身の上話を延々(えんえん)と聞かされた。とはいえ、私も知りたいと思っていたことだったので、全然迷惑(めいわく)じゃなかったけれど。 彼は上京してからずっと、「関西弁は東京ではバカにされる」と思い込み、なるべく標準語で話すようにしてきたらしい。 でも、幼(おさな)いころに一度身についたネイティブな話し方というものは何の拍子(ひょうし)に出てくるか分からないので(たとえば今日みたいに酔い潰れた時とか)、最近はもう関西弁は出るに任せているのだとか。「――どうです、先生? 僕って実はこんな人間なんですけど、引きますか?」 原口さんはさっきから、関西弁を封印して必死に標準語で話そうとしている。イントネーションは関西寄りだ
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」 彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」 ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」「え……」「その時は、お手伝いよろしく☆」「…………はい」 私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。 しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」
――私と原口さんが代々木のにある私のマンションに着いたのは、それから三十分後のことだった。 ちょっと空(す)いていた電車の中では、二人で隣り合って座席に座ることができた。そこで私達が話していたのは今書いている原稿の進み具合とか、「入った印税をどう使うのか」とか、そんなことだった。「――どうぞ、上がって下さい。コーヒーか何か淹れましょうか?」 私は彼に来客用スリッパを出してから、リビングのソファーにバッグを置いた。「じゃ、紅茶がいいなあ。ミルクティーで」「はーい。私の分も用意するんで、ちょっと待ってて下さいね」 ソファーに腰を下ろした彼のオーダーを聞き、私はキッチンに足を向けた。備え付けの食器棚からマグカップと紅茶のティーバッグを二つずつ出して、水をいっぱいにした電気ケトルのスイッチを押す。 カップのセッティングをしてから、「お茶うけもあった方がいいかな」と思った。――お菓子、何か入ってたっけ? あっ、確かチョコチップクッキーが残っていたはず……。「――お待たせ!」 数分後、私は二人分のミルクティーのマグカップとクッキーの載(の)ったお皿をお盆に載せ、リビングに戻った。「ありがとうございます。……あ、クッキーも? さすが先生、気が利(き)くなあ」 原口さんはお礼を言ってカップを受け取ったけれど。……ん? 「気が利く」ってどういう意味? いつもは気が利かないって遠回しに言っているのか、それとも女性らしい気配りができているっていう褒め言葉なのか……。解釈が難しいところだ。何せ、彼はS入ってるからなあ。「そんなに悩まなくても……。素直な褒め言葉ですから」 首を傾げている私に、苦笑いしながら彼はフォローを入れた。「ああ、そうなんですね。……別に、何かお茶うけがあった方がいいかなーと思っただけです」 ……本当に、私って可愛くない。褒められても素直に喜べなくて、こんな憎まれ口叩いて。「いただきます」 一人しょげている私をよそに、彼はおいしそうにミルクティーをすすり、お皿の上のクッキーをつまむ。下手に慰めようとしないのは、彼なりの優しさなのだろう。今の私には、その方がありがたい。それとも、ただマイペースなだけなのか……。「――それにしても、この部屋って狭いですよね。ぼちぼち引っ越そうかな」「えっ、引っ越すんですか?」 私も紅茶をすすりな
「ね? 可愛げないでしょ?」 私が同意を求めると、彼はそれを力いっぱい否定した。「いえいえ、そんなことないですよ! 先生はご自分で思ってるよりずっと可愛いし、魅力的な女性です」「……はあ、それはどうも」 そのあまりの熱弁ぶりに、私は目を丸くした。彼の私への想いはそんなに強いのかと、改めて気づかされる。「…………すみません、ついアツくなっちゃって。でも、先生は十分(じゅうぶん)女性としての色気はあるのに無防備すぎるんです」「えっ、どんなところが?」 私って自覚なさすぎるんだろうか? それじゃあ、付き合う前から私は気づかないうちに、彼を惑(まど)わせていたかもしれないってこと……?「ある朝原稿を受け取りに行ったら、ショートパンツ姿でナマ足出してるし。酔っ払って泊めてもらった夜には、至近距離(しきんきょり)でシャンプーのいい香りさせてるし。こっちは理性保(たも)つのが大変だったんですから」「うう……っ!」 思い当たるフシがいっぱいありすぎて、私は思わず両手で顔を覆(おお)った。当たり前だけれど、やっぱり原口さん(この人)も成人男性だったんだ。私の悩ましい姿の数々(かずかず)を目にしながら、一人悶絶(もんぜつ)していたなんて。「……手、出そうとは思わなかったんですか?」 恥を忍んで、私は訊いてみる。我慢するくらいなら、いっそ触れてくれればよかったのに。「出せるワケないでしょ? 自分の欲求に任せて手を出したら変質者とおんなじです。そんなマネ、俺はできませんっ!」 鼻息も荒く、原口さんが吠えた。そして、彼が〝俺〟って言うの、久しぶりに聞いた。 どうでもいいけど、ここは駅のホームで周りには人がいっぱいいる。さっきの原口さんのシャウトに驚いた人達が、なんだなんだとこっちを見ているので,私は今かなり恥ずかしい。「……分かりました! っていうか原口さん、声大きいから! エキサイトしすぎ!」 小声でたしなめると、彼はやっと我に返った。「はっ……!? あ……、スミマセン」 恥ずかしさで顔を赤らめ、神妙に縮こまる彼。なんだかおかしかった。私は思わずククッと笑い出してしまう。「……え? なんかおかしいですか?」「ううん、別にっ!」 そう言いながらも完全にツボった私の笑いはなかなか治まらず、私は彼のいない方を向いて声を殺して笑い続けた。彼もムッとするど
「……まあ、いいですけど。明日も仕事休みですし」 明日は日曜日。いわゆる〝会社員〟である原口さんはお休みだ。「ナミ先生は、お仕事は? 書店さんの方の」 彼は担当編集者なので、私の作家としての方の仕事はもちろん把握(はあく)している。今は、ウェディングプランナーとして働いている友達・美加をモデルにした新作の小説を執筆中だ。 でも、もう一つの仕事である〈きよづか書店〉でのバイトのスケジュールまでは訊かない。デートの約束をする時だって、私からしか話さない。「私は明日出勤日ですけど。もし私の出勤時間に起きられなかったら、原口さんは寝てていいですよ。合鍵あるんだし,戸締りだけちゃんとして帰ってくれたらいいですから」「そんなに僕に泊まってってほしいんですか? 先生って今まで、ロクな恋愛してこなかったんですね」 ……出た、久々のS発言! 別に彼にベッタリしたいわけじゃないんだけど……。「そっ……、そんなことは――」「ない」とは言い切れない。しばし自分の頭の中の引き出しをひっくり返し、私はこれまでの自分の恋愛を振り返ってみた。「……うん、確かにそうかも」 情けないことに、彼の指摘は思いっきり的(まと)を射(い)ていた。「原口さんの言う通りかも。今まで私、頑張って恋愛してきた気がするんです。『恋愛小説家なんだから、恋しなきゃ!』って。で、頑張ってロクでもない男につかまって失敗して」「あ……、当たってたんですね。悪気はなかったんです。すみません」「マズい」と思ったのか、彼は慌てて私に謝った。 悪態(あくたい)はついても、悪役にはなりきれない。そこが彼の憎めないところだ。「ううん、別に何とも思ってないですから。……まあ、十代の頃は別として、大人になってからホントに気心知れた相手と付き合ったのは原口さんが初めてかも。私って可愛げないし」 最後はもうほぼ自虐(じぎゃく)ぎみに言って、私は肩をすくめた。「僕はそんなことないと思いますけど……。〝可愛げない〟って、どんなところが?」 原口さんは首を傾げる。「だって、酒豪でしょ? 言いたいことズケズケ言うでしょ? それに甘え下手でしょ? 泣くことだってあんまりないし」 私は思い当たるフシを、指を折りながら挙げていった。酔ってしなだれかかることもない。男の人に甘えることもあまりない。モジモジもあまりしない。
原口さんと交際するようになって、彼の私生活(プライベート)も少しずつ分かってきた。彼は運転免許証を持っていないため、車の運転ができない。通勤にも私のマンションに来る時にも、公共の交通機関を利用しているらしい。 もちろん、私とデートする時にも……。でも今までだって、車を運転できるような男性と交際したことはないので、私はそんなことちっとも気にならない。 そして、彼が一人暮らしをしているマンションは赤坂(あかさか)にある。お部屋は十五階建てマンションの五階にあるけれど、エレベーター付き。 出身は前にも聞いたけれど兵庫県(ひょうごけん)の南東部。でも神戸(こうべ)じゃない。どうりでたまに関西(かんさい)弁がポロっと出るわけだ。彼は大学進学を機に上京して来て、それ以来はなるべく関西弁を使わないように、極力(きょくりょく)標準語で話すようにしていたけど、それでも生まれついたネイティブな話し方は何かの拍子につい出てしまうものらしい。
「まあ……、一応考えときます」 私自身も作家として、もっと広い世界を見てみたい。もっと幅広いジャンルにもチャレンジしてみたい。だから専属作家になろうとは思わない。……でも、まだ原口さん以外の編集者さんと組むのには不安がある。 まだ当分は、今の状態のままでいい。彼はいつも私の意志を尊重してくれるから、ムリに〝専属〟を押しつけるつもりは最初からなかったのだろう。「そうですか。まあ、最終的には先生のご意志に任せるので、ムリに『専属作家になれ』とは言いませんけど」「やっぱりね。あなたならきっとそう言うだろうと思ってました」「〝やっぱり〟って何が?」 自己完結で納得していると,すかさず原口さんからツッコミが入った。「ううん,何でもないです。――もう少ししたら、お店出ましょうか」 私達のお皿の中身は、どちらも残り少ない。コーヒーも飲み干してしまったし、あまり長居してしまうのはお店の迷惑になる。「そうですね……。じゃ、お会計は先生持ちで」「ええ~~!?」 私は形だけのブーイング。でも、これはこの人と付き合い始めてからはいつものことだ。「〝ええ~!?〟って何ですか。印税たくさん入ったんでしょ? 白々(しらじら)しいアピールはやめましょうよ」「……バレたか」 本当は最初から私がご馳走(ちそう)するつもりでいたのだ。冗談で言ったのだと、彼にはバッチリ見抜かれていた。でもこういう時、冷静に的確にツッコんでくれる。そんな彼が私は大好きだ。 ――何やかんやで私が支払いを済ませ、店を出るともう外は暗くなっている。「〝秋の日はつるべ落とし〟って言いますけど、このごろ日が暮れるの早いですねー」「ホントにね。っていうか、今どきの若い人はそんな言い回し使いませんよ。ナミ先生、さすがは作家さんですね」「……どういう意味?」 褒めているのかイヤミで言ったのか分からずに、私がキョトンとしていると。「ボキャブラリーが豊富っていう意味です」 とりあえず褒めているらしいと分かって、嬉しい反面ちょっとカチンときた。「もう! だったらストレートに褒めて下さいよ! ホンっトに素直じゃないんだから」 彼の愛情は分かりづらいから、誤解を招きやすい。でも私だけは、彼の言葉の裏側に潜む優しさをちゃんと理解してあげたいと思う。
「でも最近、自分がやっと一人前の作家になったような気がしてきてます。私自身、本の売れ行きが予想をはるかに超えててビックリしちゃって。こないだ入った印税なんか、ゼロの数が多すぎて『これ、金額間違ってるんじゃない?』って思ったくらい」 運ばれてきたハヤシライスを食べながら、私は嬉しさを隠しきれずにそう言った。この話は大げさではなく、事実である。私の銀行口座の残高(ざんだか)は今、大変なことになっているのだ。万から上のケタが四ケタってどういうこと? ……みたいな。「それだけ印税入ってくるようになったら、もう専業作家になってもいい頃なんじゃないですか? 書くことに専念して」「えっ、専業?」「はい。人気作家になったら、他の出版社さんからも執筆依頼が来るようになります。先生は原稿を手書きするので、そうなると今まで以上に執筆時間を長めに確保する必要が出てきます」「はあ……」 原口さんの言いたいことは分かる。パソコン書きの作家さんなら、いくらでも執筆時間の都合はつけられる。――少なくとも、手書きの作家よりは。「これまで通り働きながら執筆活動を続けようと思ったら、睡眠時間を削(けず)らないといけなくなります。それじゃ先生、最悪の場合は体壊しますよ」 彼氏としても編集者としても、私のことを心配してくれているのは嬉しい。でも……。「それだけ心配してくれてるのはすごくありがたいんですけど。私、バイトは続けていきたいです。友達もいるし、作家と書店員を両立する上での役得もあるし」「先生の気持ちは分からなくもないですけど。無理はしてほしくない――」「大丈夫。執筆時間は何とか都合つけて頑張りますから」 彼の思いやりには感謝したい。でも、ちょっと心配しすぎな彼の言葉を遮って、私は彼を宥(なだ)めた。「そうですか? 分かりました。――この問題の解決策(さく)が、実は一つだけあるんですけど」「解決策って?」 私は食事の手を止め、彼に首を傾げてみせる。「先生に、我が洛陽社の専属作家になってもらうこと、です」 私は〝目からウロコ〟とばかりに目を瞠った。でも、言い出した当人の原口さんはあまり気が進まないようだ。「なるほど。……でも原口さん自身は、あんまり薦(すす)めたくないみたいですね」「はあ。僕としては、〝作家という職業は自由業だ〟と思ってるんで。先生にはいろいろな出
――私(あたし)と原口さんが付き合い始めてから二ヶ月半が過ぎ、季節は秋になった。 今日は土曜日で私のバイトもお休み。というわけで、原口さんと映画デートを楽しんでいる。「――ナミ先生、映画面白(おもしろ)かったですね」 シアターから出るなり、彼はほこほこ顔で観ていた映画の感想を漏らした。「うん。あたし原作も好きなんですけど、映画はまた違う面白さがありましたよね。脚本家さんのウデかなあ」「あと、監督(かんとく)さんの、ね」 私達の会話は、傍(はた)から見れば映画評論家(ひょうろんか)同士の会話みたいに聞こえるだろうか。――まあ、当たらずとも遠からずなのだけれど。 今日私達が観てきた映画は、私も本を出させてもらっていた〈ガーネット文庫〉の先輩作家さん・岸田(きしだ)
「――そうそう、第二号は西原先生が引き受けて下さいましたよ」「そうですか」 琴音先生とは一(ひと)悶着(もんちゃく)あったけど、これからもいいお友達だ。彼女にも新天地でいい仕事をしてほしいと思う。「じゃあ、第三号はまた私に任せてもらえませんか? テーマはもう決めてあるから」 次回作はウェディングプランナーをヒロインにした話。美加を取材した時から決めていたのだ。「いいでしょう。打ち合わせはまた後日改めて。――ただし、できればその服はやめてほしいですけど」「えっ、なんで!? 似合いませんか?」 私は不満を漏らした。これを選んでくれた由佳ちゃんには「可愛いよ」って言われたのに! 原口さんからは不評なの!? ところが、そうじゃなかった。「いえ、よくお似合いですよ。――ただ、他の男性がいる前でそういう刺激的な格好はしてほしくないな、と」「…………はあ。そうですか」 なんか意外。原口さん(この人)にもそんな、〝